芦別物語

芦別物語掲示板

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193 thoughts on “芦別物語掲示板

    1. tamatama 管理人

      改めて合掌です。
      昨年の北海道旅行の際に芦別に寄っていけばよかった、と悔やまれます。

    2. amekitiamekiti

      tamaさん ご無沙汰しております。
      長谷山館長亡くなられたのですね、謹んでご冥府をお祈りいたします。
      去年と今年は北海道旅行していませんが、以前は毎年のように叔母と百年記念館によってから、西芦のお寺さんにお参りしてました。また行く機会あれば立ち寄りたいと思ってます。
      自分、まだ年金もらいながらも働いております、家庭菜園やりながら元気です。
      tamaさん、皆様もお体に気をつけてお過ごしください。

  1. tamatama 管理人

    「取材申込みのあった新聞社にあてた手紙」2014年1月19日
    もう10年も前のメールです。
    当時長谷山さんが紹介してくれた新聞社の方から「芦別物語」について何度か質問がきました。
    以下はそれにこたえるべく私が書いた返事です。
    長谷山さんの回顧展のことを知り、
    こちらでも何かできないかと昔のメールを見ていたら出てきました。
    長谷山さんとのやりとりは無数にありましたがPCを変えるごとに消えていきました。
    下の画像は私と長谷山さん(左)です。
    以下ご笑覧下さい。
    —————————————————————————–

    はじめまして。
    長谷山さんからいろいろお聞きしているようですね
    年初からの風邪もようやく峠を越えたようなの返事が書けそうです。

    箇条書き回答は仕事と同じスタイルなので、
    取り敢えず思いつくままに書いていきます。
    またこの文章はBBSにも後で載せるかもしれません。

    2000年頃から自分の事務所のインターネット環境が出来つつありました。
    主に仕事のためです。
    それに従い宣伝用に事務所のHPを作り始めました。
    その一画に「故郷芦別」という欄を設けたのが始まりと言えば始まり。
    芦別に旅行した時の写真を数枚載せるだけでした。
    事務所の経歴書にも故郷は芦別と書いて、西芦の教会写真を載せて
    顧客に配ってました。ほ~変わった経歴書ですね、と言われてました。
    無邪気なものです。

    その後、趣味のページとして「建築猫たまの独り言」を作り
    その一部に故郷芦別は移動しました。

    さらに読者が増えてくると会社とは完全に分離する必要が出てきたので
    別にサイトを作りました。
    それが表紙にある2001.7,1です。
    この時は確か「失われた故郷芦別」でした。

    丁度事務所も千葉から東京に移したばかりでした。
    7年間で作った実績も顧客からも離れ、夢をかなえる為の念願の東京進出。
    重圧と恐怖と夢だけの旅立ち。
    頼るものが何も無い状況で、無意識に生まれた場所の再確認を行っていたのでしょう。
    人生の岐路に立ったときに人は確かなものを求めて深い自分自身の奥底への旅を始めます。
    それが私の場合、生まれ故郷だったのでしょう。

    それ以前、1989年と1992年と2回芦別には旅行しています。
    1964年に10歳で離れてから25年後でした。
    2回目は1992年、結婚したばかりの東京生まれの奥様に自分が生まれた場所を知って欲しくて連れてきました。
    この2回の旅行で撮ったビデオをいつかHPで公開したいと強く思ってました。
    youtubeもgoogleも影も無かったその頃、公開までに乗り越えるハードルはいくつも聳えていました。

    2001年に賛同者も無く一人で始めた頃は、仕事もまだ軌道に乗らず
    周囲では仕事とは無関係のHP作成に批判的な声の方が圧倒的でした。
    当時、HP作成というのはかなりマニアックなオタクか専門の業者と思われていました。
    勿論、人気も無く見所も無いHPに資料を提供してくれる人がいるはずもなく
    当時人気のあった西芦在住の新聞店じゃがいもさんの「田舎のじゃがいも」や芦別市の市役所職員が作る「アシネッツ」を見ては、少しずつ知識を得ようとしていました。

    他にも関東でも2~3人くらいの人が旅行時の芦別写真を掲載していて結構人気がありました。
    でもいくら読んでも、当時の三井芦別がどんな街だったのか詳しく具体的に教えてくれるところはありませんでした。

    私のHPの人気はどん尻でしたがいつか三井芦別の街並み資料を集めた唯一最大のサイトにするのだと決めていました。

    三井芦別を離れた子供たちは普通とは違うのです。
    閉山が迫っているのに、親から具体的な理由も聞かされず、
    いきなり1000kmの彼方に連れて行かれた私のような子供達が大勢居ました。
    懐かしい生まれ故郷も東京生まれの親にはさほど未練がましい場所でしか無く
    むしろ、ようやく本来の地に戻る意味合いの方が強かったのかもしれません。

    何万という子供達が故郷から引き裂かれるように散っていった。
    それが炭鉱の街で生まれた宿命。
    そして数十年後に戻って見たら、
    東京のように破壊と増殖を繰り返し、大きく発展しているかと
    期待して戻ってみた街は・・・原野と廃墟の葬列。
    懐かしさを確認しようと戻った結果が余りにも無残な答え。
    絶句。
    建築を職業とするものにとって建物の死は大きな意味を持ちます。
    そこで生まれ、生き、死んでいく聖なる場所なのです。

    10歳で離れたので故郷三井芦別の事は殆ど知りません。
    子供の行動範囲など猫の子とそう変わらないから。

    いつかこの美しい街を隅々まで再び歩いてみたい。
    その想いはついにかなうことなく終わりました。
    街が消えたのです。

    そうしたもろもろの思いが重なり私を動かしていたようです。

    やがて事前に何の連絡も無くいきなり事務所宛にどっさりと荷物が届きました。
    匿名でした。
    調べてみると芦別在住の最後の鉱員だった岩粉撒きさんという方からの三井芦別の資料でした。
    当時の地図、坑内(鉱山の区域)、坑外(つまりは大部分を占める居住地区)
    社内新聞、名簿、そして写真が山となって何度も何度も届きました。

    それが発火点のようになり次々と他の人の資料提供を促していきました。

    今では最大提供者である百年記念館を初めとし、
    個人84人から1964年の記憶だけで作る地図、街並み写真、ビデオ、校歌音源、
    そして数え切れない人たちからの記憶。想い出の数々がここに集まっています。

    このサイトを炭鉱のサイトと思ったことは一度もありません。
    何故なら炭鉱で生まれた子供たちは父親の職域への接近を厳しく制限されていたからです。
    つまり、坑内と坑外です。
    今でも炭鉱内部の資料を掲載しても殆ど反応はありません。
    父親を第一世代とすると
    我々はそこで生まれた第2世代の物語だからでしょう。

    タイトルは今まで何度も変わりました。
    会社名を作るときのように覚えやすくて短い、ということで
    単純に今の「芦別物語」に落ち着いています。

    これにすると、まるで芦別市と関連がありそうによく思われます。
    芦別と利害関係があるのではと思う人もいるようで
    中には芦別の何処に住んでいるのか聞いてくる人もいます。
    1000km彼方の上野公園ですと答えることにしています。
    市とは何にも関係はありません。
    私の心の中にある思い出の場所であるだけです。
    運営は全て私一人だけです。

    これを通じて、東京でも札幌でも芦別でも出身者と知り合いになれ
    実際にお会いすることも出来るようになりました。
    趣味を持たない仕事人間の私には今後の楽しみです。

    それでは長文にお付合い頂き有難う御座いました。
    芦別の寒さはもう忘れました。
    10度を切るともう大騒ぎです。

    それでも時々あの真っ白な世界が心の中をよぎる時があります。

    寒さ厳しき折お体御自愛下さい。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
    今晩は。
    一つ忘れていました。

    サイトの定期閲覧者ですが、
    毎日来る人はカウンターによると70から80人でしょうか。
    中には月に1回という人もいるみたいですが。

    ただ想い出アンケートによると固定閲覧者は200人以上はいそうですね。
    これは重複防止機能がついているのである程度は信用できます。
    北海道在住者とその他関東等在住者が半数ずつ。
    男が多くて女性が少ないのは謎です。
    統計的には偏りの少ないきれいなカーブを描いていると思ってます。

    サイトにはアクセス解析機能もついてますが、
    仕事のHPではないので見ることは殆どありません。

    それとBBSにも全く登場せず、直接メールを送ってきて
    直接会話?をして終わりという方も結構居ます。
    海外からでは今まで3人です。

    建築猫たま

  2. アバターobihirotaro3

    今週の月曜日いとこと久しぶりに会いました。

    いとこは、私と同学年で中学に私が転校するまでしょっちゅう行き来してました。
    玉川に住んでました、今は東京です。
    懐かしさで、お互い75歳の年齢からするとこの先再会はあるのかどうか。
    話の中で、頼城町には三井の所有地でない、個人が保有している土地があるそうです。
    地価は安いと思うのですが、別宅を建てて住みたいと思いました。
    かなわぬ夢かもしれませんが。

    1. tamatama 管理人

      ウーン、ライフラインが問題です。快適に暮らせれば別宅も有りかも。

  3. アバターobihirotaro3

    未だ、全部読んでないのですが、貴重な写真が沢山ありそうですね。
    私は、団塊の世代、昭和24年5月生まれ、牛年です。
    先日、75歳になりました。住んでたのは頼城町西町8丁目です。
    もう、30年くらい前かな、帯広のパチンコ店で、そろばん塾の田畑先生にお会いしました。偶然の出会いでした。息子さんが帯広に勤めてて、パチンコ店に来てるらしいとのことで、探しに来たそうなんです。
    あとは、芦別ゆかりの人とは全く会う機会もありません。
    同じ学年の人とか近い世代の人がいればお声掛けください。

    1. アバターobihirotaro3

      >薫風寮

      懐かしいですね。寮の南側にソロバン塾がありました。1時間交代で1回20人位教えてもらってました。昭和36年頃、塾の場所が仲町9丁目の会館へ移りました。芦の湯近くです。この会館は葬儀などでその後使われてたと聞いていますが、まだありますかね。仲町に叔母さんが住んでて、平成27年7月に行ってきました。その叔母さんも一昨年亡くなりました。緑泉にあった林商店が叔母さんの店です。叔父さんは林昭次郎です。店も解体して今は更地ですね。

    2. tamatama 管理人

      林商店 さんにはもう20年ぐらい前に手紙を出して、当時の住民の名前が載った住宅地図があるかどうかを聞いてみたものです。
      とても丁寧に答えていただきました。
      そうですか もうないんですね

    3. アバターobihirotaro3

      >林商店 さんにはもう20年ぐらい前に手紙を出して

      奇遇ですね、そう言えば、私の6歳下の、富山にいる弟からその話聞いたことがあります。叔父さんは私の母の実弟です。平成26年3月に84歳で亡くなりました。

  4. アバターobihirotaro3

    初めまして、頼成を離れて60年経ちました。
    中学2年で転校したので、クラスの同級生と再会も無しです。
    小学校の恩師沢崎先生、中学校の恩師福永先生を訪ねてからもはや50年。
    誰か知っている人と出会えるのを期待してます。
    宜しくお願い致します。

  5. tamatama 管理人

    ページネーションにより全頁をカテゴリ分けして通算表示しています。
    下の方に「1~95」表示されています。数えると1147ページありました。
    全てのページにナンバーが振れればいいのですが、このwordpressという構成上、投稿順になっています。元々日記の為に作られたものだからでしょう。

  6. tamatama 管理人

    1965伸びゆく炭鉱三井芦別3上り芦別鉄道by ashibetsu
    を再掲載しました。当時の映画フィルムをVHSにVTR化し、さらに現代の動画mpgに変換しています。
    この粗い映像データから多くを読み取れるのはここで育った人たちだけでしょう。
    記憶と想像力がこの貴重な映像を補完し豊かな思い出につながることを希望します。
    ページの一番下にYOUTUBEを埋め込んでいます。
    入山停留所の順番が変ですが・・・。
    https://youtu.be/2eDmwFUnntw?si=QiHM3hvIDsUi72pq

    1. tamatama 管理人

      うーん人気ありますね。芦別の本は殆どありませんから。
      私も3月に購入しました。ちょっと驚きました。
      長谷山さんが選んだ100枚の写真、なんと三井芦別が写っているのはその内10枚足らず。
      それも街並みや人々の生活風景ではなく、集会の様子です。
      残り90枚は芦別市本町、上芦別等です。芦別市広報担当が撮影とあります。
      この本の意図に合わせて選択されたのでしょうか
      それとも他の深謀遠慮があったのでしょうか。今となっては不明です。

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