芦別物語

緑泉結核療養所1956年

■緑泉結核療養所 1956年(S31年) by MS

1)昭和31年、これから療養所に入るところでしょうか。 写っているのはMSさんの父上の知人です。 昭和37年には閉鎖になってしまう健保組合の施設。

AIによる着色済みです。

撮影提供 MS氏 無断転載、直接リンクを禁じます

2 thoughts on “緑泉結核療養所1956年

  1. 長谷川秀紀

    映画館のことでもう一つ。この映画館は三井炭鉱が経営していたものだったと思います。見た映画はほとんど忘れてしまいましたが、この年になって白黒の映画を見るとどこかで絵見たことがあるなと思うのは、この時に見たものであることは間違いありません。なぜなら、わたしの家にはテレビがありませんでしたし、緑泉の後引っ越したのは深川でしたので映画館にはいきませんでした。
    頼成の映画館で観た映画ではっきりと思えているものがあります。「蟻の街のマリア」といえ映画で、私はずっと「バタヤ街のマリア」と思っていました。不治の病気の若い女性の献身的な態度に子供ながらにいたく感動しました。女性の真意をわからず街の人が試すように指の間に棒を入れて痛めつけているのには泣いてしまいました。こんなことも思い出しました。当時習っていた旭町のそろばん塾の先生がとても似ていて好きになったのかもしれません。調べてみたら、私は炭鉱の映画と思っていたのですが違いました。東京は荒川河畔での話でした。文部省特選の映画なので学校で見に行ったのかもしれえません。多分小学3年のころだと思います。私的な話で恐縮です。

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  2. 長谷川秀紀

    ありがとうございます。母が入院していたのは結核療養所なのでしょうか。両親とも逝去し、写真好きだった父の樺太からの引き上げのものも含めて何冊もあったアルバムのなくなってしまいました。今となっては惜しい限りですが、私の記憶も保育園の頃のことなので施設の記憶もありません。残念なことです。
    小学校のころ頼成の映画館に行きました。確か10円だったと思いますが、一日に数本の映画を見ることができました。小学校では児童が勝手に見にいってはいけない決まりだったので親と一緒に行ったと思います。でも、多分一回だけ友達といったことがあります。見ている途中で、呼び出しがありました。頼成小学校のお友達が用があるので入口まで来てくださいというものでした。わたしたちは何だろうと思って入口に行ったら、そこには先生がいてしこたま叱られました。映画は最後まで見ることがないで帰ってきました。わたしたちは、先生がだますなんていけないよなどと小さい声で文句を言いながら帰ってきました。親にもえらく叱られたのでガックシきましたね。

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