芦別物語

頼城小閉校記念回想

■頼城小閉校記念誌③回想 by okurappa


頼城に生きて… 篠田のぷ手(元教職員・床屋のおばちゃん=故人)

明治の頃富山県から開拓団の一員が祖父母、両親と一緒に渡道し た父母の二女として大正十年の生まれ。今の青少年会館の近くで、 芦別の市街までの買物は一目がかり、徒歩です。当時は空知郡芦別 村頼城と称し、五年生まで幸町の校舎でした。
高等科で芦別に通 学、近所の人から役場、買物、お祭りの子どもの着物まで買ってき たことを覚えています。当時の頼城ですから実に静かで、村中が一 家のような感じでした。 一大決心をして札幌の学校に行き、六年程教員をしており、終戦 の時は頼城小学校勤務でした。お国のため、天皇のための指導が大 きく変わり、自由とか民主主義の本当の意味がよく解らず心から一 女教員として悩みました。 我が家に突然の手紙が届き、会議に参加しましたが、土地買収の 内容で、水田一反二亘二十円、畑百八十円で、大嵐の様子でした。
滝川まで招待され、ご馳走になり、引出物のカステラの味を覚えて います。 華人の収容所があって、寒さと食料不足で倒れた人達を仲間が毎 目のように棺桶でかつがれており、見張りの目を盗んで母が何かを 食べさせていたものです。戦後になって、わざわざ母のところへ食 べ物を持って来た華人もおり、顔の色が違っても、言葉が通じなく ても「人情」は大切なものと母が話していたものです。 収容所に所長さんだった人が小学校の宿直室に泊り、物思いにふ けっていた姿が脳裏に焼きついております。戦犯として裁判にかけ られ、収容所の医療設備が不十分とかで絞首刑になったと報道され ておりました。戦争の「酷」をしみじみ感じたことを覚えています。 その後見合い結婚をしました。退職し三井鉱業所の指定店として 理髪店を開店。理容のことはまったく知らない者が、はじめて床屋 のおばさんになり迷うことばかりでした。若い人を頼み営業しまし たが、お客様は多いし、子育てもあって大変でした。 長男を生み、その百目目から意を決して店に出ることにしました が、今までの生活とあまりにも違い、「いらっしゃいませ」の言葉 が口から出ず、旦那に叱られながら頑張り、三十八年に理容師の資 格を取り、数えきれないお客様に利用していただきました。 後に炭坑も縮小され、あの賑やかなお祭りやお盆等が信じられな いくらい静かになり、私共も六十三年に廃業しました。 忘れずに残っていることに、学校の火事があります。そのころ父 母が用務員として学校で生活をしておりました。まだ店で働いてい た夕方隣の奥さんが知らせてくれました。ストーブを使っていた親 のところが火元ではないかと一瞬心配になりましたが、外に出てみ て火が離れていたところからで、学校の火事は残念でしたが、内心 ほっとしたものです。 つきない七十年を想い出し、大過なく暮らすことができ、このま ま平凡に終わりたいものと念じております。(生前の手記を抜粋)


忘れられない頼小 旧職員 辻輝雄(昭和三十一年~昭和四〇年)

教員として初めて勤めたのが頼城小学校でした。昭型二十一年四 月。三井鉄道のディーゼル車から緑泉の駅に降りたった弱冠(二十 歳)の私でした。「ここから私の人生が出発するんだ。」という気持 ちで、赤レンガの校舎を眺めたのを今でも思い出します。 「緑泉第二合宿」という独身寮に入り、朝、学校に行く前にまず 野球の練習。帰りは星が見えるまで野球の練習で、あの頃十円で見 ることができた三井の映画館にも余り行けなかった事などを懐かし く思い出します。お陰で教職員の全道野球大会にも優勝できたのが 今思っても楽しかったことの一つです。 私の初任給は、本俸七千八百円でした。その頃十八歳で三井炭鉱 で働いた人が、手取り一万三千円で羨ましく思った時代でした。 児童数も毎年増え続け、教室が足りなくて職員室のなかった頃も ありました。職員朝会は図書室で行われたのですが、別に座る席が 決まっているわけではなかったので、六十人近くいた教職員の誰が 休んでいるのか新米教員の私には、わからなかったものでした。(で も、児童も教員もどんどん増える時って、すごく活気があるという ことは分かりました。)運動会では徒競走をいかに早く終わらせる かが保体部の腕の見せどころでした。同時に二ヶ所からドンドンス タートさせたものでした。修学旅行には、米を持参して行ったのを 覚えているでしょうか。-思い出は尽きませんが紙面がなくなりま した。…私を育ててくれた頼城小学校に今でも感謝しています。


私の頼小時代 旧職員菊野誠次(昭和五十三年~平成二年・現芦別市立啓成中学校)

昭和五十三年四月(一九七八年)から平成二年三月(一九九〇 年)、十二年間の頼城小学校での生活。 赴任した当時は、三井芦別鉱業所も最盛期の時代で、学級数十五 学級(普通十三、特殊二)、児童数四百二十名、芦別市内の小学校 で二番目の大きな学校でした。 しかし、三井芦別鉱業所と共に歩んできた頼城小学校も三井鉱業 所の縮小と合理化により児童数も激減の一途を辿り、平成二年三月 には、児童数六十七名になってしまいました。第七十四回卒業生 (卒業生十一名)を送り出し、私は啓成中学校に転勤となりました。 「私の頼小時代」は良き同僚・児童・父母、そして良い環境に恵 まれ、陸上・スキーを初め、教育実践ものびのびと行うことができ 吏した。年甲斐もなく、陸上・スキー-の特別練習や陸上の早朝練習 等、子どもたちと一緒に競争したものです。子どもたちは厳しい練 習にも絶え、ジヤンプ競技では入賞者独占。陸上競技大会では頼城 小に「敵無し」と一言われ、大会記録保持者が過半数を占めた時代も あり、無数の選手たちが活躍し、立派な成績を残してくれたことが 懐かしく思い出されます。 全国大会でも名を馳せたのが、ブラックスネーク(野球少年団) の全国大会準優勝、野崎睦子(現芦別小学校教諭)の全国スキー大 会準優勝である。 たとえ学校はなくなっても、ここで育った子どもたちは、全国各 地で活躍してくれるだろう。私はそれを信じている。


「充実した二年間の思い出」旧職員 土居幸一(滝川市在住)

私がお世話になったのは、平成二年と三年の二年間で、当時を思 い起こすと三つのことが思い出されます。 私が赴任して最初に与えられた最大の仕事は、十月に施行される 開校八十周年記念式典を成功させることでした。地域では芦別鉱の 合理化で人員整理が続き、日ごとに児童が転出し不安な生活の中で した。しかし、PTAを中心とした地域の皆さんの熱意で大きく盛 り上がり予定した記念事業もスムーズに進行し無事盛会裏に終了す ることができました。山の沈滞ムiドを吹き飛ばし、新たな頼城小 学校の隆盛を祝うべく記念すべき式典となったことを思い出します。 二つ目は、平成二年度から取り組んだボランテイア活動は児童会 が中心となってPTAはもちろん地域全体の活動へと発展しまし た。内容は、リサイクル品の回収や古切手集めで、班を組んでリヤ カーやトラックでの回収、ちりも積もれば山となるで、大きな善意 の募金となりました。翌年は、さらに旭ケ丘動物園に「ひまわり」 を贈るための「ひまわり畑」の開墾など、子供たちの多くの体験や 苦労は、お互いに助け合い支え合う心の教育の充実となりました。 三つ目は、数年ぶりで陸上クラブが復活し、熱心な先生方の指導 と子供たちの意欲に燃えた敢り組みは、早朝や放課後遅くまでの練 習の成果が実り、小さな学校から全道大会へと発展しました。 閉校となっても、頼城小の歴史は残ります。生まれ育った地域や 学校を誇りとして、同窓生の皆さんの一層のご活躍を期待致します。


頼城小学校の思い出 第二十四回卒業生 朝賀しづゑ(東頼城在中)

私は現在住んでいる東頼城で、昭和二年六月、朝賀商店の長女とし て生まれ、七才の時生みの母に死別、父に連れられての頼城小学校入 学でした。学校は現在の場所とは違う所にあり、二教室で先生が二 人、冬になると和裁の先生が一人増えて、ささやかな複式小学校でし た。校庭には大きなポプラの木が数える程あり、葉が風に揺れてキラ キラと光り輝いて、とても椅麗だったのを覚えています。又、落葉林 もあって涼しい木陰を作ってくれました。運動会になると、父は、リ ヤカー一杯の冷たい飲み物や風せん等をつんで必ず出店していました ので、昼食時には、売るのを手伝ったりしたのも懐かしい思い出で す。四年生の時、札幌出身の高松義一先生が来られて、私達は様々な 良い影響を受ける事が出来ました。オルガンが上手で、生徒が書いた 詩に、すぐオルガンで曲をつけて皆で歌ったり、新しい歌もたくさん 習いました。札幌の話は、私にあこがれと希望を抱かせ、常に目標を 持って進むこと、生涯勉強が大切であることなど、素晴らしい教育を して下さったと思います。上級学級の紹介もあって、六年生卒業後、 札幌の女学校に行く事ができたのも、高松先生のお陰と感謝しており ます。平成二年、同窓会のメッセiジに頼城の馬は強いんだ、それは 六線沢(旧道)があるからだ。誰かテ」うゆう作文を書いたっけ、みん な誇りをもっていたんだね。大好きな子供達だったよ。又卒業後当時 元頼城部董広長していた父と大勢の方々が終戦の目のラジオを聞いた のも校庭でした。歴史ある頼城小学校閉校は淋しい事ですが、これか らも語りつがれることと思います。


終戦の贈物 第三十五回卒業生 黒畑弘子(千葉県茂原市東郷在住・旧姓冨士川)

小学二年生になる孫の動きを目で追いながら、時の流れをしみじ みと感じています。『頼城小学校』なんと懐かしい響きか一それだ けで胸の奥に熱いものが沸いてきます。 頼小時代、私にとってそれは終戦の贈物だったと思えるのです。 着ること、住いのこと、食べることのどれもが不足だった子ども達 でしたが、頼城の自然は、等分に温かい光りをくれました。 ポプラが見おろす懐かしい校舎から新しい頼小へ-でも私の終戦 を引きずった小学生の時間は、止まっていたのかと思えるくらいに 稀薄になっていました。しかし、素晴らしい贈物を頂戴していたこ とに今目改めて思いを深くいたしました。 それは頼小がくれた素晴らしい友人達でした。明目のこと、過ぎ た目のこと、頼城の山のこと、川での遊びのこと、時が流れた今も 楽しく語り合える友をたくさん贈っていただきました。 故郷の頼城小学校よ友をありがとう。そしてありがとう頼城!


頼城小学校よ!ありがとう 第三十八回卒業生 富士川計吉(現室蘭工業大学教授)

母校が閉校になると聞いて、小学校時代に思いを巡らせた。早朝 には生徒が、長い綱のようになって大きな玄関に吸い込まれていく 最盛時の通学路は見事であった。六年生のときに焼失した旧校舎も 堂々としていてなつかしい。 受けもちの先生方は当時のままで記憶に焼き付いている。一年一 組、銀縁眼鏡に詰め襟の服部先生。途中から、背の高い高橋先生。 そして、ゆったりとしてやさしい池田先生。二年二組、小柄で美人 の山田先生。三年三組、やさしいお母さんの宇田先生。四年二組、 仲間のような親しみを感じた須藤先生。五年四組、声よしスタイル よしの横田先生。六年一組、深い思索的な表情の奥村先生。そして、 受けもちではないが、怖いお話で震えあがらせてくれた中村先生。 豪華客船や飛行機の見事な模型を作って見せてくれた飯田先生。 登校のとき通り過ぎる使丁室から、いつも朝食のにおいがした。 黙々として清掃作業などをしていたおじいさんとおぱあさん、あり がとう。 校舎を失ってから卒業までの期間を頼城中学校体育館の仮教室で 過ごした。そこで、バスケットボールというものを初めて身近に見 て、中学の三年間それに没頭した。 小学時代を締めくくる卒業式を、頼城映画館で迎えたのも忘れら れない。登別からはるかな故郷をなつかしく思い出している。 たくさんの栄養をくれた頼城小学校、どうもありがとう。


頼小校舎の存続を 第四十四回卒業生 坂口博規 (現駒沢短期大学教授)

昨年十月十五目、頼城小学校開校九十周年記念祝賀会に出席し、 近い将来酉芦別小学校との統合による閉校という「運命」を耳にし ていた。この度来年三月で閉校とのニュースが届けられた時、やは り「早いな!」というのがまっ先の感想であった。 私が頼城小学校に入学したのは二十九年四月。しかし前年十月に 旧校舎が焼失、中学校の体育館を仕切った教室で授業を受けた。同 年十二月に現校舎が完成したということなので、同時に移ったとし たら、辛うじてだが、現校舎を六年使用した最初の学年になるだろ うが、定かでない。いずれにせよレンガ造りの偉容なる新築の校舎 に移り、アミューズセンターよろしくその「探索」に胸ときめかせ ていた思い出がある。低学年の時は長い校舎の一・二階を、高学年 になり病院側にある校舎へと教室が移ったように思うが、低学年の 時に上級生のいる校舎へは、ある種の畏敬の念で足を踏み入れるこ とが出来ず、進級してそこへ移った時など妙にうれしかった。進級 する度に「世界」が広がる実感を持ったような気がしている。 実は昨年十月の祝賀会に出席して校舎を「見学」した時、卒業し て四十年、それまで夢に現れていたいくつかの「風景」が、頼小の 校舎のあちこちの場所だったことを確認し、また往時の記憶の正否 を確認し感慨深かった。数々の思い出、一つ一つ書き出せないが、 そうした思い出の源である校舎、頼城・緑泉等に残る数少ない記念 建築物であり、将来の存続を心から願うぱかりである。


「陽射しの下、思い出の頼城小学校」 第四十六回卒業生 長田美智子(札幌在住・旧娃佐々木)
昭和三十年代、小学校在学時は、とにかく炭鉱全盛期で高学年の 頃には、六十余人学級、七組以上の生徒が在籍したと思います。そ の数と共に、沢山の先生方も赴任され私達の教育に携わって下さい ました。とても活気に溢れていた時代でした。 学校行事の一つ、「運動会」も町に然り大勢の家族の応援などで 盛り上がり、お昼時は自分の家族の座席をすぐに見つけられない事 もありました。 又、夏休みともなると、小学校生活と切り離せない思い出にプi ル遊びがありました。学校から少し離れた所にあるプール。湧き上 がる子供達の大歓声。近付くにつれ、胸がワクワクして「早く行か なきゃ」と犬掻き一メiトルの私でも小走りで向かったものでした。 学校もプールも恵まれた自然の中で、秋ともなると学校周辺も素 晴らしい紅葉に一変し、写生の授業では画板をかけ熱心にその光景 を描いた事は、自分が好きだった時間として心に残っております。 そして当時、未だ舗装されてない車道は車の往来も少なく、通学路 として歩いていた道の両端に植えられていた樹々の落葉を手にとっ たり、陽射しを受けながらゆったりとした下校時問を費やしました。 現在、私は札幌に住んでおりますが、三年位前〃赤レンガ造り の校舎”を外から見る事ができました。変わってなかった校舎。 いっまでも存続してほしい。「こども会」の課外活動、「週番」の役 割いろんな事を教わったわが母校-〃頼城小学校ありがとう!”


「頼城小学校閉校にあたって」 第四十八回卒業生 嶋名龍晴(頼城在中)

頼城小学校が閉校してしまうとは誠に淋しい限りでございます。 私の子供二人もお世話に成り娘は嫁ぎ子供が生まれ、爺さんにされ ました。私が入学したのは、昭和三十三年、炭鉱が隆盛の時代で生 徒数が多かったですね。先生方も生徒の名前を覚えるのに大変だっ たと聞いています。私の一年生から六年生までの担任の先生の名前 ですが、苗字しか記憶にありませんが確か一年生から順番にいくと 一年生が宮崎先生、二年生が岩木先生、三年生が但々野先生、四年 生が黒沢先生、五年生が先野先生、そして六年生の時は黒沢先生で した。先野先生、黒沢先生は女性でした。今も健在でしょうか。 あの頃はまだ道路は砂利道で馬車が行き来してました。それにぶ ら下がって通学した記憶があります。 春は学校の近くの沼でカエル、イモリなど捕まえて遊んだもので す。夏は川岸で泳ぎ第一キャンプ場の下り口にはアイヌの方が住ん でおり時代を感じますね。校舎の山側には営林署の鉄道があり、切 り出した木材を積んで奥頼城から上芦別へ向けて走っていました。 秋は校舎裏山が三井石炭従業員の畑の割当などがあって、野菜な どを作っていました。私も大根を抜き、リヤカーで運んだ思い出が あります。 冬には裏山に、浜元コースと呼ばれるスキーが滑れるコースが あって、そのコースは浜元さんが頂上から直滑降で滑り木立に激突 死されたと言われ、その名前がコースに付けられた様です。その下 で私達は体育の授業で滑っていました。 沢山の思い出が有りますが終りに、今としては残り少ないレンガ の校舎。今の時代では貴重ではないでしょうか。思い出を残す為に は何かの形で残したいものですね。


青空・たわし・頼城の山々 第五十回卒業生 長野時敏(北竜町立北竜中学校)

頼城の山々、耳をすませば、友がきの歓声。その「炭坑の子」を 指導して下さった先生方。なかでも、三年二組担任、藤田良一先生、 あだ名は、「たわし」。小さな失敗は、にこにこ空を指さし、「ほら、 ほら、青空」と尻をつねる。もう一つは、先生のひげ面でほおずり。 ビリビリしびれ、もうご勘弁をと相成る。それが「たわし」。そし て、これは絶対に許さんと、強く叱るときは、真剣に、目で、言葉 で、ビンタで、別人のように怖い先生。 ある時、私と友達が、「仲ノ湯」に入っていた。思わぬところで 先生と遭遇。しまった。シャイな私達は、浴槽から脱衣場へこそこ そと移動。服を着てから、もう一度風呂場をのぞいたところで先生 と目があった。一目散に逃げる私達。翌目、教室で「長野と芳賀が 逃げるようにいなくなった。」と説教された。青空でもたわしでも ビンタでもなかった。恥ずかしく情けない気持ちになった。後目、 先生と別の場所で出くわした。気合いを入れてあいさつすると、先 生は、「おう、おはようi」目が笑っていた。私は、先生が好きに なった。国鉄スワローズの金田、ふるさと函館五稜郭、先生ご自身 が、子どもの頃、先生に怒られたが今でも納得していないこと。私 を「時蔵」と呼んで可愛がってくれたこと。「想い出」という文集。 その後私は、教員になった。あらためて先生の人問性と質の高い教 育に感謝と尊敬の念を抱いている。頼城の山々のように。


思い出は校歌とともに 第五十五回卒業生 鈴木透(芦別市役所)

赤レンガ校舎の頼城小学校を卒業してから、三十年の歳月が過ぎ ました。私は、現在芦別に住んでおりますが、小学校、中学校と少 年期を過ごした頼城を時折思い出します。 私が通学していた当時の学校は、一学年に四学級があり、炭鉱が 全盛期だったこともあり、学校も頼城の町も活気に満ちあふれてい たと記憶しています。 隣近所には、たくさんの子どもたちがいましたから、いまは見る ことがなくなった、缶蹴り、かくれんぼ、パッチ、ビー玉などで暗 くなるまでよく遊んだものです。 また、ドロドロになるまで遊んだあとに入った大きな風呂場は最 高でした。(当時入浴料は無料でした。) そんな頼城の町も炭鉱の閉山に伴い、町を離れる方が相次ぎ、児 童も年々減少するなど寂しくなっていくことを残念に思っていまし たが、この度、九十年余りの歴史を刻んだ母校が閉校するというこ とで、時の流れを痛感しますが、私の心の中には、今も、花や紅葉 に守られて石炭の倉頼城の-…の校歌とともにたくさんの思い出が よみがえってきます。学校は閉校してもいつまでも自分の記憶の中 に生き続けるものと思います。 在校生の皆さんには、閉校に直面し、寂しさでいっぱいだと思い ますが、頼小での思い出を胸に、新しい学校に一目も早く慣れて、 楽しい思い出をたくさん作ってほしいと願っております。


頼城小学校の大切な思い出 第八十回卒業生 菅由佳里

「昔、芦別川にサケが登っていました」この言葉は私が小学校に 入学した年の八十周年記念式典の時の呼びかけです。私が最初に 「むかし!」と大きな声を出したことをよく覚えています。あれか らもう十一年もたちましたが、赤レンガの小学校で過ごした日々 は、今では最高の思い出です。赤レンガと「山」の形の校舎が自慢 であり、その中での思い出は、本当に数えきれないほどあります。 私たちの頃は、全校児童も年々減り、複式学級になりましたが、 人数が少なくても、とても楽しかったです。百メートルの廊下をば つ当番で雑巾がけをしたり、校庭に巣箱をかけたりした体験、そし て全校児童が家族みたいに仲が良く、年上が年下の面倒をよくみて おりました。先生方からは、様々なことを教わりましたし、頼城小 学校にはたくさんの思い出がつまっていて書ききれません。 今回、閉校してしまうということを聞き、残念な気持ちで一杯で す。あの赤レンガの校舎は、ずっと私達『頼小っ子』を見守ってく れましたし、今の自分はあの頼城小学校で過ごしたから存在してい ると思っています。毎目が発見の連続で、自然に囲まれた学校での 勉強は、本当に楽しかったです。 頼城小学校はなくなってしまうけれど、頼小で過ごした人達の心 の中に大切な思い出としてあり続けるだろうと思います。 頼城小学校よ、大切な思い出をどうもありがとう。本当に本当に どうもありがとう。


「頼城小学校閉校記念誌」 ありがとう頼城小 2001年(H13)11月4日
発行:頼城小学校 資料提供 奥ラッパ氏

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