芦別物語

中の丘小学校の歴史1957-1980

■中の丘小学校の歴史「耀風」より  by ganpunmaki

中の丘小学校鼓笛隊、背後に三井芦別鉄道ディゼルカーから多くの子供たちが見ている。
中の丘地区の子弟は、西芦別小学校に通学していたが、その多くは汽車通学していた。父兄の間では一、二年生の小さい児童の通学は危険であるということから、分校設置の要請の声が上がり、西芦別小学校のマンモス化もあり、昭和31年9月1日、西芦別小学校中の丘分校として開設した。 教師は本校から児童とともに分離(4年生以下)、32年4月1日独立して中の丘小学校と改称、校舎の面積572平方メートルで、児童数は235名であった。 当時の中の丘地区は、鉄筋の近代アパート、新生町、若草、錦町と約300戸の住宅と1000人以上の組合員と家族が住み、昭和34年には児童数327名を数えた。 中の丘小学校は地域のアイドルとして住民の関心も強く、給食用菜園を作り、給食室が完成(昭和27年)校庭プール(38年)、スケートリンク(40年)等の設備が整えられ、昭和43年以来、中の丘小学校鼓笛隊の坑口慰問が年中行事となっていた。 しかし石炭合理化の道は厳しく、住宅統合計画の中で、中の丘撤退計画が決まり、55年3月、閉校となり、22年の短い歴史の幕を閉じた。

資料 三井芦別労働組合 解散記念誌「耀風」より 提供 岩粉撒き氏

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