芦別物語

緑泉:厚床さんの思い出02

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ふるさと


父のこと

生まれてから小学校4年生がおわるまで道央の町に住んでいたが、父の仕事の都合で道東へ転校した。 これを皮切りに、小学校は4つ、中学校は1校でしたが、高校は2つ、大学卒業以来、北海道を離れて、 大阪の会社に就職し、大阪の地方都市、宮城県の地方都市、愛知県の地方都市、そして現在大阪の地方都市に舞い戻った。 この地も終の棲家ではないので、いつかまた、よそへ引っ越すと思う。文字通りの転勤族だったわけだが、 私の兄はそうではない。長兄も次兄も就職先では転勤はなく、住居は変わったけれども仕事先のある町から転勤することはなかった。 私の父は北海道の地方公務員だったので、転勤族だったようだ。父の話によると、 石狩支庁、空知支庁、上川支庁、根室支庁を行き来したことが分かる。 父は晩年、家の沿革史を書いて、私たち兄弟に配った。それによると、父の父は富山県のある村の出身で、 石狩川の開拓農場へ小作として入ったそうである。父は家の沿革史を書く前に父の父が住んでいた富山県を訪問したが、 父の実家である墓も家も何もなかったそうである。過去帳にもそれとわかる記録はなく、 父の思いにかなうことはほとんどないという状態だっだそうである。 しかし、ともかくもこの地で父の先祖が住んでいたことは間違いなく、「ここで我が先祖が働いていたんだなあと思い、 しばし立ち止った」と記載している。

沿革史にはないが、父から聞いた話で、上幌向とか政和というところで務めたとき、 「氷点」を書いた三浦綾子氏が同僚だったと聞いたことがある。氷点は小説もテレビドラマも見たから、 「意外なところで意外な人とすれ違ったものだ」と思った。私はクリスチャンでもないので、 原罪などというものを信じないし、氷点をそういう意識でも見たことはない。 作者の意図がそうでも、かなりの偏見ではないかと思う。殺人者の娘だからといって、父の罪を背負う必要もないし、 原罪というなら、どうしようが救済はないのではないかと思う。きわめて傲慢な言い分だと思う。 小説がヒットしたのは、継子いじめであり、1000万円という懸賞に無名の新人が当選したこととドラマのキャストのせいではないかと思う。私が見たテレビドラマは主人公の陽子を内藤洋子が演じ、継母は新玉美千代、医者の父は芦田伸介が演じていた。

父は10人兄弟の末っ子で、すぐ上の兄が岩見沢に住んでいたから岩見沢がふるさとと思っていたのではないかと思う。 定年退職したのち、札幌に住んだが、その後、長兄の住む岩手県に引っ越し、そこで天寿を全うした。次兄は東京に住んでいるので父の墓参りで兄弟がそろうことになり、一番遠い所に住む私は毎年は行けず、1年ごとになる。命日は8月なので、できるだけ墓参りをし、兄弟で会食することにしている。
その時思ったのだが、墓は長兄が継いで、先祖の位牌、仏壇を引き継ぐこと、3男である私はその墓には入れない。常識なのだそうだが、私は10年ほど前にやっと知った。それ自体は異存がないが、自分の墓が必要なのだと知った。父は浄土真宗だったのだけど、私はこれといって、特定の宗派はないし、ましてキリスト教徒にもイスラム教徒にもなる気はない。仏教徒なのかと自問しても答えはない。どこかの宗派に入ろうかとも思わないので、このままでは妻子に「墓はいらない、どこかに散骨してくれ」、と遺言するかもしれない。


道東へ転校

ふるさとという感情を持ったのは、道東へ転校してからだった。単純に、前の町に行きたいという思いであった。道東での生活は後で振り返ってみると8年である。小学生2年、中学3年、高校3年、それも4か所も引っ越しした。特別の思いがあるかと問われれば、やはり最初の土地、小学校を卒業し、中学校を卒業した酪農村だと思う。中学の同窓会がいまだにあり、一昨年参加もした。ホーム頁を立ち上げたとき、思いもしなかったのだが、今年の夏には同窓会の人たちにホーム頁を知らせようと思っている。

大学へ進学した時、道央の町は帰省の通り道だったのだが、ついぞ立ち寄ることがなかった。正確には根室本線から枝線に乗り換えなければならなかったのだが、帰省の途中、ほぼ中間地点で、道東へ帰るにはその駅は夜になる。釧路に早朝につかないと後が接続しない。一泊しないと立ち寄れなかった。学生時代は裕福ではなかったから、、、、、就職して、最初の賞与が出た夏、20年ぶりに生まれた町にいった。そのときの写真の一枚がプロフィールに乗せた「在りし日の緑泉」である。そのために買った写真器だったので、50~60枚の写真を撮った。

そのときの衝撃は忘れることができない。当時の町は全て廃墟、廃屋になっていた。引っ越しした時の場所には違う家があり、当時の面影はない。ただ、唯一の救いは学校へ行く途中に商店街があったのだが、店は廃業していたものもあったが、営業していたものがあり、町並みはよく残っていた。
そのうちの1件に私が子犬をもらった店があり、オバチャンにあって、泊めてもらった。そこの娘さんは私の父を覚えており、写真も撮らせてもらった。私がよく遊びに行った近くの町も歩き、ところどころ写真も撮った。その後、更に、ウン十年後に再度行ったのだが、そのときは廃屋もなく、原野になっていた。町が亡くなった、とはこういうことを言うのだと思う。その後、その町を離れた人が思い出のホーム頁を立ち上げ、かつての写真を掲示していることを知って、そこへ、写真も送った。かつての友達からもメールが来て、幼馴染は念願通り、画家になったと聞いた。いつか、彼の絵を見たいと思う。

道東の学校でまず第一の思い出というと、4か月しかいなかったのに、西和田の小学校である。転校性ということもあって、少しいじめにあった。2学年一緒の複式学級というのはここで初めて知った。1年先輩の6年生に東和田中学校の校長の息子がいて、親しくしてもらった。もう二人近所に同級生がいて親しくしてもらった。一人は国鉄の子で線路わきの住宅の近くの林で遊んだ。もう一人の子の家の職業はわからない。農協だったのではないかと思うのだが、名字も忘れた。
マンガのページを書いたとき、海の王子、シートン動物記、などを読んだことを思い出したので、改めてここで記録しておきたい。、もうひとつ、母と長節湖(「ちょうぼしこ」と読む)へハイキングに行った。湖のほとりでご飯を食べたのだが、急な坂道を下ったという記憶と泉のほとりに立つと覆いかぶさるような森林があったようなシーンを記憶しているのだが、後日、長節湖をいってみて、其れは記憶違いで、道のりも思ったより近く、広い湖の湖面を眺めた。母と座った場所はどこか思いだそうとしたが、富山を訪問した父と同じで、「ここへ母と来たことがあったんだなあと思い、しばし立ち止った」だけであった。隣町が父の職場だったので、夏に引っ越しした。隣町の住宅は高台にあり、無線局が近くにあった、漁村である。なぜか、私にはここには特別な思い出がない。5年生の8カ月を過ごしたのが縁で、6年生の修学旅行を同行させてもらった。後日、このクラスメートは高校へ進学した時再会した。 


酪農村

根室へ引っ越しして1年後、父は次の職場に赴任した。同じ春、長兄は大学へ進学、次兄は長兄について、札幌へ転校し、期せずして私は一人っ子になった。ここにはいろいろ思い出はあるのだが、まだ書くことができない。一つ書くとすると、母と赴任地である村へ行くため、最寄りのJR の駅で降りると、赴任地の村の役員が馬車で迎えに来てくれた。馬車に揺られながら、海苔巻を食べたことを忘れることができない。冬には馬そりに乗り、馬が交通機関だということを初めて知った。北海道電力が来ていない。農協が発電していたそうだ。発電量が少ないため、冬には電力が落ちる、農家が乳搾りする時間帯には電圧が落ちる。どの農家もトランスを持っていた。農家が乳搾りを終えると、電圧は上がる。乳搾りする機械をミルカ―というのだが、当時すでに、農家の機械化が始まっていたのだ。冬には着雪で電線が切れると1週間程度は停電である。ランプ生活を知った。

父は「地の果てに赴任する」ような気持だったと、後日、母から聞いたが、それでもまだそれほどの僻地ではない。僻地クラスという規定があって、赴任地は僻地2、JRの駅から4km離れているのが理由らしい。ちなみに僻地4というと、「はしりこたん」「やりむかし」ところをきいた。名前からして僻地だなあと思う。地図を見てほしいが、別海町(今は町だが、当時は村、別海村といった、香川県より広いのだという)に風連湖という湖がある。オホーツク海とつながっている汽水湖なのだが、長く伸びた砂州がオホーツク海と風連湖を仕切っている。その砂州が「はしりこたん」はある。道路もあるので、車で行けるのだが、走行中に地震がきたら逃げられないと思うのでいったことがない。対面は惷国岱(しゅんこくたい)という島で、野鳥の楽園になっている。国道44号線がその近くを走っており、根室へドライブする際、私も2度、展望したことがある。
中学校はその村の隣にしかなく、4.5kmを自転車で通った。小さいが川が3っつあり、自転車で上り下りできず、降りて押さないと登れない。人家は1km四方に1軒くらいしかなく、牧草地があるだけだから、夜は真っ暗、クマの通り道があるということだから、秋はクマに会わないことを祈りながら通った。幸運にも出会うことはなかった。その中学のクラスメートが今でも同窓会を続けている。クラスメートは19人だったが、ほとんどは農家で、7kmを通うものもいた。彼らは朝、乳搾りをしてから登校するという話だった。
中学は小中併置校というもので、中学と小学校が同一校舎内にあり、中学1年生も一部複式校で1,2年生が同一クラスであった。通学道路は本HPにも載せたが、現在は立派な舗装がなされているが、当時は文字通りの田舎道で、雨が降れば水たまり、泥道になる。私にとっては忘れられない道である。当校は父母の協力でパンを焼き、給食をしていたのだが、わがクラスは技術家庭科の時間に野菜を栽培して協力した。ニンジンの種まき、草取り、間引きなどといった農作業をよくしたものだが、これが教育的配慮だったのかどうかは私にはわからない。秋には全校生徒が農家のいも拾いを2日手伝い、なにがしかの学校の経費にあてたようである。中学2年生の時、国家的イベントがあり、学校のテレビで見たのだが、これを明かすと年齢がわかってしまう、同年代なら、あれだ、とすぐ分かるものだが。

後述する高校のある街には映画館が2つあった。駅に近い映画館によくいったことがある。タイトルはわからないのだが、母と観劇し、近くのすし屋で昼食なのか、夕食なのか、わからないが食べた記憶がある。村には店というものがなかったから、帰りに食料品やら何やらをかって、駅から4.5km荷物を背負って歩いて帰った。4.5kmというのは随分遠い道のりだと思っていたが、中学生の時はみな45分程度で歩いていた。


補給基地

高校時代は私の青春だと思う。例にもれず、好きな女の子はいたが、迷惑がかかってもいけないから、其れは書かない。高校は酪農村の補給基地となるべき少し大きな町であった。高校1年は男子寮に入り、2年は下宿、3年は転校して、電車通学した。男子寮というのもおかしな経験で、いろいろ逸話はあるけれど、其れはまだ書きたくはない。寮の向かいに町の公民館があった。図書室が併置されていて、何度かそこで読書した思い出がある。ウン十年後にそこへ行ったのだが、公民館はなく、どうも町の公園に変貌しているようだった。どういうわけか、その図書室の移転を手伝った記憶がある。移転先はどこだか記憶はないのだが、引っ越しの記憶と、そこで読んだ本の記憶がある。テレビドラマに「つむじ風三万両」というのがあったのだが、この原作本である。ウン十年後の訪問では図書館はなくなったJR駅の跡地近くに新図書館として設置されており、年月の経過を思い知らされた。JRは既になくなったのだ。

高校は町の中央から見るとかなりの高台で、長い坂道をのぼらなければならなかった。下宿先の近くに神社があり、大学合格祈願でお参りしたことがある。近所の人家は一変していたが、神社は変わらない。私は当校を2年で転校したので、同窓会には入れない。高校1年の時、高一コースを購読していたのだが、読者の創作コンテストがあり、「プラタナスの木の下で」という創作が発表された。私はこれに強い刺激を受け、年度の末に編集された寮の文集に「荒れる日」という数十ページの創作(作文?)を投稿した。これを校長の目にとまり、が朝礼で取り上げられ、高校での記念すべき1ページとなった。以来、高校卒業まで4編ほどの創作の様なものを書いた。作文は小学生にころから好きだったが、創作となるとそうはいかない。語彙が少ない。構想ができない。作文は経験を順序立てて書けばよいが、経験のないことは書けない。卒業と同時にやめてしまったが、これが転校した後、私の一生にかかわる事件につながることになるのだが、これも今は書くことができない。

この町は釧路から釧網線に乗り換え、更にもう一度乗り換えなくてはならない。英語の先生が赴任する際、電車はずーっと山の中を走り、町に入ると急カーブで正面に教会の十字架が見えて、感動したそうである。その先生のせいではないのだが、私は英語が苦手で、終生これは治らなかった。数学が好きだというわけではないが、英語も国語も弱いのだから、数学くらいは得意にならないと進学はおぼつかない。結局この高校を卒業しなかったのだが、私の思いは転校した高校より強く、妙な気がする。ウン十年後に、高校を見に行ったのだが、新校舎で覚えているものはない。学校の前は農事試験場の畑だったのだが、そこはそのまま、変わるものと変わらないもの、引っ越しなどしないで済むなら、生まれた土地でそのまま仕事をして、そこで生涯を全うする、、、、そのほうが幸福じゃないのか?とはこのごろよく思うことではある。

私が大学へ進学した後、父は**原という酪農村に赴任した。ここが最後の赴任地になったのであるが、JRの駅から13km、これが最後と思ってあるいた。トランク片手に歩いたのだが、牛には会うが、人には会わない。おまけに道端に人家もなく、道に迷ったのかそうでないのか、訪ねることもできず、一本道をひたすら歩いた。2時間半あるいて、あたりは暗くなりだし、困ったなと思い始めたところで牛乳の集配所が見つかり、訪ねることができた。誠に別海町は広い。マイカーでドライブするとやめられない。まっすぐの道が延々と続く、気が着くと100km/h、さっぱり速度感がない。今度は標茶(しべちゃ)からJRの駅の跡地を尋ねてみたいと思う。


根室半島

父は兄二人が都会に出ながら、私を田舎住まいさせたことを気にして、私が汽車通学でもよいから自宅から通えるよう、転勤の希望を出してくれた。図らずも赴任地は高校の転校になり、転入試験を受けて、転校した。赴任地はJR駅のすぐ近くで、自宅通学できるが、高校へは50分程度かかり、早起きしなければならない。田舎の電車は親切で、高校生が時間に遅れても手を振ると止まってくれる。私も1度電車を止めたことがある。転校して間もなく、電車に乗ると高校生が一人もいないことに気付いた。おかしいなと思いながら、乗っていると、「今日は高校が休みで座れる」。開校記念日だった。前日、高校ではそんなことは一言も聞かず、不親切だなと思った。帰ってもいいのだが、これも何かの縁だと思い、バスで納沙布岬へ行った。灯台があるだけなのだが、北方領土も見た。後にも先にもこれっきりで、昆布の打ち上げられた海岸で、波が荒いなと思った。
赴任地は酪農村なのだが、日本でも珍しく、地平線のような広大な景色が見られる。根釧原野というと釧路湿原が有名だが、春先の濃霧が特徴である。霧はひたひたと忍び寄り、ゆっくり平野を覆ってしまう。霧の中では顔に水滴を感じるくらいといえば、想像できるだろうか。後日、この霧の一部は摩周湖まで旅するのだとしって、懐かしく思いだした。根室半島とは面白いところで、北はオホーツク海、南は太平洋、オホーツク海側は流氷で港は凍結するのだが、太平洋側は凍結しない。流氷はもちろんやってくるが、全く見た記憶はない。釧路港でも流氷に乗って、行方不明になる事件が年に一度くらいはある。小さな半島なのに、湖が多く、温根沼が二つ(同名なのだ)、長節湖、タンネ沼、トーサンポロ沼、地震でも来れば、沈んでしまいそうな気がする。落石(おちいし)、昆布盛(こんぶもり)、西和田付近には防風林があり、浜風をさえぎっている。旧道を通るとエゾ鹿が遊んでいる。西和田を過ぎると、防風林がなくなり、海岸線まで牧草地で、すとんと岸壁になる。砂はなは少ない。秋から12月いっぱい雪は降らずに冷たい風が吹きまくる。根室八景という奇景がある。屯田兵という言葉もここで知った。

根室市内はさびれたものの、基本的にあまり変わらない。変わりようがないとでもいうのだろうか。それでも何代も続けて住んでいる、けして住みやすいところではないと思うのだが。最近はロシア語の看板が目立つという。花咲ガニがいる。高校時代は道端で大きな鍋でゆで、販売する露店が多かった。1杯、500円、これで十分夕飯になる。根室以外では札幌以外にお目にかからない。今は10倍高騰した。西和田の沖合に、ユルリ島、モユルリ島という無人島がある。昔家畜だった馬が野生化して生き延びているのだが、冷たい風に向かってたちつくして寒さをしのぐ野生馬として有名である。こんなところに捨てるなんて罪なことをしたものだと思う。


ふるさとはどこだろう

高校を卒業したのち、道南の観光都市に10年、大阪へ就職し10年、その後宮城県、愛知県、そして再び大阪の地方都市へ戻った。しかし、いずれも自分の町だという思いはない。用事で旅行することはあっても、故郷という思いはない。
道央の炭鉱町、根室はいますぐにでも行きたいという衝動に駆られる。住んだ時間の長さではない。覚えている記憶の量でもない。いっても知っている人はいない。記憶にある町はない。ただ、幼い頃、子供の頃、ここに住んでいたのだという思いだけなのだが。
根室のクラスメートには再会を約束した。狩勝峠を車で超えたい。北海道はせいぜい後2回くらいしか行けないだろう。そのうち、1回は大学の恩師の葬儀になると思う。現在は89歳のはずである。父は88歳と10カ月でなくなった。そろそろ自分の順番が近付いているという気がする。

思えば遠くへ来たもんだ。

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