芦別物語

1963.06あしろう新聞号外

資料>■あしろう新聞号外S38年6月28日(1963年) by bear
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■あしろう新聞 (号外)昭和38年6月28日
2013,9,10 BEAR記 このリーフレットは、その頃の組合闘争の課題と成果、炭鉱の現状が端的に記録されてお り貴重な資料と思われる。小生が気付いた点について記載する。

1)石炭産業の衰退に伴う合理化に対して、長期にわたる労働争議の結果、妥結せざるを 得なかった苦悩が表れている。 [つまり我々は、今こそ決断のときであることを確認した。 「それは残るものは去る人の 第二の人生についてその出発が厳しいものであるほど一時的な苦痛な諸条件ではあって も、これを耐え忍び物心両面からの力強い支援をおくることが必要であり、一方去る者は、 悪条件に忍従を決意し支援を惜しまない残る人々の生活安定のため如何に苦難な道であろ うとも 「第二の人生」に向かって潔しとすべきである。」このことは、ともに長い目で見 た 「生活の安定」に通じ「幸福」となるを信ずるからである。]とまとめている。

2)閉山措置について 三井美唄鉱業所、三井山野鉱業所、三井田川鉱業所の閉山 この結果、芦別鉱業所は約 400人を美唄鉱業所から受け入れた。美唄鉱業所のその他の 従業員約1000人は、会社関係専業に吸収された。他の産業に就職予定51名 一応退職者については退職金の上積み就職にあたっての各種便宜を図ってはいるが。長 年住み慣れた地を離れたり、なれない職場を考えるとその苦労は計り知れない。

3)希望退職募集について 会社再建体制確立のため人員合理化に関し、下記の通り協定する。 各事業所については、各山の実情に応じて行う。

4)協定書 (全山)P9以降 O希望退職 (大規模) O鉱業学校卒業生の処遇 (山元)P17以降 O職場の整理統合による合理化 O出退勤勤務時間の職務の実質化 (更衣、入浴、洗面などは、就業時間外) O安全委員の廃止、保安委員保安係の削減 O住居修繕をやめる。このころから空き家が増えていく。 O通勤補助の削減 O病院の民営化、合理化 O保育園の独立採算 O社宅、光熱費など徴収 O各種補助の会社員担の取りやめ、実費負担

■私見 上記の内容をみると、閉山する炭鉱はもちろんのこと、存続する炭鉱についても合理化 と人員整理の荒波が押し寄せていたことが分かる。炭鉱従事者は、生命の危機と将来へ の不安、子弟の進路、就職先等を勘案し、早急の決断を辿られた。私が中学 1年の夏だ ったが、同級生を始め近所の家族など三分の一に迫るほどの離職者が出た記憶がある。

※ 初期の三井鉱山学校の卒業生は優秀者が多く、芦別高校と覇を競った。その卒業生は、 保初係員等から、職員昇格の道があったが、後期の入学生は、直轄夫を最終目的とした。 この協定書では、職員昇格の方針が取りやめとなった。このことが、希望退職者増加の 一因となったとも考えられる。

※ 我が家も姉が中3(後芦別高校吹奏楽部・札幌在住)、私が中一、妹が小2で、将来に ついて、悩んでいた頃だったと思う。 結論の出ないままにしていたが、昭和39年11月に二坑立坑が完成した。父親は、坑 外鉱員として電車庫に勤め、運搬電車の充電を行ってきたが、完成とともに地下の基地 に勤めることになり、職場環境に苦痛を感じるようになった。折しも父親の兄弟が函館 に新建材店を開くことになり、再就職の道が開かれた。そこで昭和40年5円28日、” 修学旅行が終わってすぐ、離職、函館に転局した。多くの離職者と同じように、辛酸を なめざるを得なかった。

参考 私の記憶では、三井芦別炭鉱には、下記のような職層があった。 O西芦別の駅の山の手・緑泉幸町、緑町1・2・3丁目に住んでいた炭鉱職員 O一般社宅、アパートに住んでいた鉱員 (坑内夫、坑外夫、坑外員) O準鉱員 O組夫 (主に玉川に建築された建設会社の宿泊施設)昭和30年過ぎから増加 Oその他 (関連産業…飲食店、運送業など、農業、公務員、教員、一般企業、など)
資料、提供 bear氏

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