芦別物語

新国の行方

新国立競技場について建築猫はどう思っているのか?
答え、何も思ってない、感じてない。
何故ってコンペに参加していないから。巨大過ぎて参加表明すら出来ないから。

日本の多くの競技設計は最近とみに実績重視となっている。
類似した建物の設計を過去10年以内にやっていること、云々。
これでは初めて参加したい者には永遠に初めがやってこない事になる。
少なくとも自力では出来ない。それに加えて東京都が近年打ち出したデザインビルド方式だ。
設計者は基本設計だけ、あとは建設会社に設計施工でお任せしなさいという方式。
http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/knp/column/20141226/687870/?rt=nocnt

従来の設計施工分離の原則は都自らが打ち破ってしまった。
最早アトリエ系の設計事務所に参加するチャンスはない。

今まであったのかというと近年は数年に一度のみ、類似実績をきびしく問わない方式が。
台東区の浅草雷門前の観光ビルコンペはその一つ。勿論作品持参です、私。
意見を聞いた構造設計者が今まで見た事の無い構造と形の案です、と言ってくれた。
と、それも遠い日の打ち上げ花火。

安藤さんの会見を見た。彼を叩こうとする人たちが多いのには驚く。
誤解を恐れなければ、従来のアカデミー出身者にはその傾向が強いと言える。
私自身もかつてそうだった。
あのボクサー上がりが、的な反アンタダ派である。
でも冷静にじっくり見ていくと彼の作品は緻密で美学と信念に裏打ちされた芸術の域に達する作品だと思えてくる。

その安藤さんがコンペの内情について話した事、極めて当たり前、建築設計者なら当然と思える内容だった。
大体、建築費などと言うものは、今でこそネット上で予算が合わなくて設計者と施主が裁判、
などと書かれているけどそれは住宅のように小さくて予算が見えやすいものの話。

大きな建築では施工会社が複数参加し相互競争により下げていくのが普通だった。設計者自らが積算することは無い。
我々は意匠設計者なのだから。

彼はそれを言っただけ。自分たちはデザイナーなのだと。
設計者は彼らの意見も聞きつつも守るべきところは守る、という姿勢は崩さない。
さもなければ建築では無くなるから。美学と信念に裏打ちされた社会的な建物、環境ではなくなるから。

安売り神話が何をもたらすかは自明の理。

新国の優れた評論はこれ、ほぼ全面的に支持します。
http://blogos.com/article/89162/?p=1

ザハハディド案は好きかって?もし若ければ
あの妖怪のようなおばさんに弟子入りしたいかって?
答えはイエス。曲線を自在に操り現実化していくことは長い間我々の夢だった。
若い頃沢山描いたスケッチは数量化されない、という点でテーブルにも載せられない不遇の時代が続いた。
それが今は出来る時代だ。コンピュータが計算して数値化してくれる。数値化=現実化である。出来ないとは言わせない。
以前は図面に曲線を描いたらこれをなぞれ、そっちで数値化しろ、と渡したこともあるにはあったけど、後悔・・。

私自身、新国には全く無関係かと言うとそうでもない。
国や都がやる大きなプロジェクトでは大きく周辺不動産の価値が動く。すると私にも依頼が来る。
今回も例外ではない。

ただそれだけのこと。

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