芦別物語

佐藤美紀雄先生

電話が鳴っている。黒くて重い大昔のやつだ。
薄暗い部屋で、大きな電話が大きな音を立てている。
横幅より天井高さの方が大きい部屋。
灰色の古い事務用デスクと大きな扉が開いたままの金庫。
壁一面の資料は茶色い封筒に入って整然と分類されてる。
でも白い袋もあるところを見ると、茶色は先生の両切りピースから
流れた煙が作り出した模様だろうか。

事務所の主がもういない事は分かっている。
ただ、誰か残務整理に来ているかもしれない、と思っただけだ。

ベルの音はどこにかけても同じはずなのに、妙に重い。
指先から重くなり、熱に変わり、やがて熱は首筋を伝わり
まぶたの下で留まる。思わず涙が溢れそうになる。

先生が亡くなった。信じられない思いと、
入院してから一度も伺わなかった事が後悔になって胸にのしかかる。
東京での大事な人を失った。
いつもいつも頼りっぱなしの私に、いつもいつも応えてくれた先生。

97年、独立して初めての大きな物件が分譲マンションだった。
40度を超える傾斜地。バブルの頃、やり損ねた事がある。
その一つが傾斜地での建物。たっぷり勉強した。
リゾート建設予定地の山を下調べで何度も登った。
でもそのときは文字通りバブルと消えた。

想いはつのり、ひとり立ちしてして初めての施主に、傾斜地でやりたい、
と風変わりな思いをぶつけ続けた。
やがて、本当に建った。
引渡しのときに「千葉県で一番良いものを作りました」そう言って
自信を見せた。
でも裏づけも、評価してくれる人もいなかった。

施主は私に内緒で、評論家の佐藤先生を呼んでいた。
そして、それは97年度低層マンションで最良のものに選ばれた。
首都圏全体で。私はあとで知らされた。

佐藤先生を捜し、訪ねた。
最初に「素人が勝手な事を書いて、申し訳ありません」と先生は真っ先に言われた。
あわてたのはこちらの方。とんでもない感謝しております。
そう伝えた。その時から先生との交流が始まった。

といっても、いつもいつもお願いするのはこちらだった。
困って相談に行くと、あの大きな笑い声で「大丈夫ですよ」と励まし、
いくつもの有力デベロッパーを紹介していただいた。
先生の自筆の推薦状も何度もいただいた。

先生の事務所を訪ねると、黙って「今日は飲みましょう」
と言って、行きつけの上品な飲み屋に誘っていただき
おまけに四谷のカラオケ店で唄い、励ましていただいた事もある。
いつもの両切りのピースの煙もうもう、
酒を楽しみつつはりのある高い声で、はっきりと歌われた。
せりふ入りの歌はオハコ。でも我々の知らない曲が多かった。
曲の合間には白い金平糖をつまみ、故郷の秋田の話をされる。
いつも先生が勘定を払ってくれた。親分肌でもあった。

パレスホテルのバーで目が回るほどのカクテルをおごって頂き
あのビッグスマイルで熱く励ましていただいた。
周囲には凛として厳しく、我々には信じられないくらいあたたかく接していただいた。


恩人である。東京で生きていく、世界と戦う。
その方法と意気込みを先生から感じ取っていた。

もういない。先生はいない。
一度も医者にかかった事がない、常々自慢されていた。
危ない自慢でもあった。
病に倒れ、退院し、再度倒れた。それが最期。
ジャーナリスト佐藤美紀雄先生の最期だった。

さよなら、先生。皆の感謝と熱い思いに送られて
旅立たれたのでしょう。まだまだ早かったけれど。
まだ私を呼ばないで下さいね。
いつかまた会いましょう。
その時はまた建築の話、一杯しましょう。

今はご冥福を心からお祈り申し上げます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

画像添付